吉田茂岸信介 吉田茂と岸信介ー対米従属路線の形成と自主独立路線の模索、日本史の総括を
米国経済に強気の見方が広がり、米金利の先高➤ドル高・円安➤日経平均高の構図となっているが、結果として同国の経常赤字は再拡大し、経常赤字の累積である対外純債務残高(海外からの純借金)はますます膨れ上がっていく。
米国が、自国通貨ドルが国際基軸通貨であることにあぐらをかいているからである。このため世界経済はもはや、不均衡を是正する自動調整能力を失っている。その一方で、イラクを始めとするアラブ諸国の泥沼化はますます深刻化している。
世界最大の借金国・米国が軍事大国であることと両立することは最早不可能になっているが、その表れが安倍晋三政権における日本国憲法破壊の集団的自衛権行使の積極的容認である。いずれ、世界的に矛盾が噴出してこよう。
こうした時代において重要なことは、日本国の国際社会、世界経済への貢献のための平和外交の展開である。そのために重要な視点を提唱した外務省国際情報局長、イラン大使、防衛大学教授を歴任された孫崎享氏の戦後史分析であるが、「保守派」の中に孫崎理論を「ためにする理論」として批判する勢力が存在するのは、嘆かわしい限りである。
孫崎理論が証明しているように、戦後の「軽武装・町人国家=対米従属路線」を敷いたのは、やはり、サイト管理者の郷土の大先輩である吉田茂であろう。ウイキペディアによると、
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった。実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ。
吉田の実父と義父は若い武士として1868(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。
1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という。
吉田謙三はユダヤ系のロスチャイルド財閥のグループの一員であるジャーディン・マセソン商会の横浜市店長を勤めたが、ジャーディン・マセソン商会は欧米帝国主義列強の一翼を担い、アヘンの密売や武器の売却でかなりの「富」を蓄積した。
吉田謙三がその結果として一財産をなしたのは理解できるところだが、40歳の若さで死去し、吉田家の養子として育った11歳の茂は養父・吉田から莫大な遺産を相続した。吉田茂は「英米派」の「民主主義の旗手」とされているが、この評価についてもこうした生い立ちの側面からも考慮する必要があろう。吉田茂は慶應義塾、学習院大学、東京大学(無試験)と渡り歩き結局、外交官になり政治家となった。
一方、岸信介は「昭和の妖怪」と言われる、東條英機内閣に協力したことなどで「A級戦犯」などと批判されるが、実際は、かなり違う。極東国際軍事裁判ではA級戦犯被疑者として3年半拘留された。しかし、即時停戦講和を求めて東条内閣を閣内不一致で倒閣した最大の功労者であることなどの事情が考慮されて不起訴のまま無罪放免されている。
他の戦争指導者同様、公職追放は免れなかったが、それも東西冷戦の影響による米国の方針変更によりサンフランシスコ講和条約発効とともに解除されている。
一橋大学、東京大学、早稲田大学教授を歴任された経済学者・エコノミストの野口悠紀雄氏は、「一億総中流社会」を現出した戦後の経済体制について、その淵源は日本型統制経済体制を確立した「1940年代体制」まで遡ると分析しているが、この「1940年代体制」を築いたのは革新官僚として名を馳せた岸信介であろう。岸の主張は、「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」であった。
そのきっかけとして、岸は1955年8月、鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、ジョン・フォスター・ダレス国務長官と重光の会談にも同席したが、ここで重光は旧安保条約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案したが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意識し、そのための周到な準備を練りあげていくことになった、と言われる。
孫崎理論が詳細に分析しているように政治・経済・外交・軍事における「自主独立路線」を展開しようとしたことは確かだろうが、「安保闘争」によって米国(のCIA)に打倒された。なお、国民皆保険や国民皆年金、最低賃金制など「自由放任主義」の欠陥を是正するための社会保障制度を導入し、池田勇人によって成功した戦後の高度経済成長の礎を構築した。
また、対米自主独立を唱える鳩山一郎とともに自主憲法制定論を主張した。アナクロニズム的な面は濃厚だが一方で、「大東亜共栄圏構想」を侵略戦争と規定したことは確かで、贖罪意識を有していたことは想像に難くない。
また、引退後国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された事実はある。
岸はCIAのスパイだったともされるが、なにせ「昭和の妖怪」だから、米国に使われているフリをしながら、対米自主独立・東アジア中心の外交を展開する布石を打っていた公算が大きい。孫崎理論を学んで腑に落ちた所以である。一般的に、日本では家系を一体として見做す風潮が強いが、やはり個人は個人であろう。ジャーナリストの田中良紹氏の「岸信介と安倍晋三はこれほど違う」が極めて参考になる。